知っておきたいアートワード

アンリ・マティスをやさしく紹介♥

「アンリ・マティス 自由なフォルム」を楽しむために

0歳~35歳(1869~1904年)
・織物業が盛んな北フランスの小さな町ル・カトー=カンブレジで生まれました。
・親の言うことを聞いて、学業を終えて法律事務所の見習いとして働きましたが、20歳を過ぎて画家になることを決意します。
・その後、パリでアカデミックな教育を受けますが馴染めず、23歳の時にギュスターヴ・モロー教室の聴講生になります。

36歳~42歳(1905~1911年)

・36歳の時、マティスはアンドレ・ドランと小さな港町コリウールに滞在、この地やパリで制作した作品をサロン・ドートンヌに出品して「フォーヴ(野獣)」と称されます。
・また、マティスは模様のある布をモチーフにした静物画や室内画を繰り返し描き、二次年と三次元の間の緊張感のある空間表現をするようになります。
・この頃、アフリカが西欧諸国によって植民地化されるにしたがって、マティスら若い画家の周辺ではアフリカ彫刻への関心が抱かれ始めました。

43歳~47歳(1912~1916年)
・1912年の1月~4月と9月~翌年の2月、マティスは仏独間の植民地争の後、マティス滞在中にフランスの保護領になったモロッコのタンジールで制作しました。
・この頃は、パリの画壇ではキュビスムが登場、またイタリアの未来派がパリで展覧会を開催、マティスのモロッコで得た明るい色彩の文様を伴う作風ではなくなります。
・1914年に第一次世界大戦が勃発、故郷の北フランスはドイツ軍に占領され、弟もなってしまった民間人捕虜支援のための版画制作や、前衛画家たちと交流しました。

48歳~60歳(1917~1929年)

・1917年末、戦況は悪化していましたが、マティスは南仏に赴いて、ニースで制作を始め「初期ニース時代」と呼ばれます。この後マティスは生涯南仏を制作の主要な拠点としました。
・またこの頃、大戦中で不足していた職業モデルを探し、イタリア人モデルを使って50点ほどの作品を制作、以降最晩年まで女性の職業モデルを使った制作は続きます。
・1921年《赤いキュロットのオダリスク》は「オダリスク」の最初の重要な作品で、第一次世界大戦後のフランスの公衆に歓迎されました。

61歳~70歳(1930~1939年)

・1930年にマティスはアメリカを経由してタヒチに旅行します。この時は本格的に制作していませんが、晩年の切り紙絵に大きく反映されます。
・帰国してすぐ、カーネギー国際賞の審査員として再び渡米、この時にフィラデルフィア郊外のメリオンに建てられた美術館の壁画を依頼されました。

・壁画と並行して1932年に本格的挿絵本として最初の仕事である『マルラメ詩集』の挿絵を制作、この仕事は造形と表現の関係について大きな転換期となりました。

71歳~78歳(1940~1947年)

・第二次世界大戦勃発に続く1940年6月のフランス降伏で多くの芸術家がフランスを離れる中、マティスはニースに残ることを決意、けれども翌年に大病を患いました。
・ベットの上で制作する時間が多くなり、助手によって準備された彩色済の神を切り抜いて貼り合わせる切り紙絵は、新たな表現媒体として重要な作品となっていきます。
・1947年に『ジャズ』が出版され、切り紙絵という手法が新たな表現媒体として確立する契機となりました。

79歳~84歳(1948~1954年)

・1948年、スイス国境近くのアッシーの教会装飾に、ルオーやレジェ、ボナール、シャガール等とともに参加。

・一方、1941年に手術後に看護婦の代理としてマティスの世話をし、モデルも務め、後に修道女となったモニク・ブルジョワを通じてヴァンスの礼拝堂の建築計画に取り組みました。
・1951年に礼拝堂は完成、3年後の1954年にニースで亡くなりました。

 参考書籍:天野知香『もっと知りたいマティス』東京美術 

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式H.P.

蔦屋重三郎情報!!⑤「蔦重が見つけた才能」

「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を楽しむために

「発掘された絵師たち」
・蔦重は、優れた企画力に加えて、新しい才能の発掘にもその能力を発揮しました。

「喜多川歌麿」
・喜多川歌麿(1753-1806)は「女絵」の第一人者。それまで全身で描かれていた美人画から、頭部を大きく描く「美人大首絵」というスタイルを生み出し、女性の繊細な表情と美しさを描かせたら右に出る者はいないとされた絵師。
・その歌麿が新人時代に手掛けた『画本虫撰(えほんむしえらみ)』は、精緻な彩色摺の挿絵で、蔦重が企画から制作まで主導しました。

「東洲斎写楽」
・写楽をいきなり大判錦絵の大首絵でデビューさせたのも蔦重。
・歌麿に続く新たなヒットを模索していた彼は、歌麿に匹敵する絵師を探し、1794(寛永6)年5月に無名であった絵師・東洲斎写楽による役者絵を世に出しました。
・背景に雲母(きら)摺を施すという、豪華な歌舞伎役者の似顔絵28点でデビューしたのですが、誇張された作風は当時の大衆には支持されなかったようです。
・たった10ヶ月の活動で浮世絵界から姿を消しましたが、約100年後にドイツの学者ユリウス・クルト(1870-1942)が写楽を絶賛、再評価へと繋がりました。

「葛飾北斎」
・蔦重は、北斎が勝川派の開祖で新しい役者絵を確立した勝川華章の門下にいて、勝川春朗と名乗っていたころの作品も手掛けました。
 参考書籍:田辺昌子監修『徹底図解 浮世絵』新星出版社 

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式H.P.

蔦屋重三郎情報!!④「江戸の出版界」

「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を楽しむために

「近世の出版物」
・出版物には、物の本質を説く正統的・学術的な本である「書物」と、娯楽・慰安・啓蒙のための通俗的・実用的な「草紙」の二種類がありました。
・「草紙」は、(名目上ですが)女性と子供をターゲットにしていました。

「出版は上方が先行」
・江戸時代の出版は、京都が先行しました。
・上方では、問屋仲間を結成して学問的な書物を扱う書物問屋が多く存在していました。
・「草紙」も出版されましたが、文章が主で絵は従という、文芸と密接な関係を持つ挿絵本でした。

「では江戸の出版界は」
・一方江戸では、上方からの江戸に来た「下り物」としての出版物もありましたが、江戸の地物である地本を扱う地本(じほん)問屋が、浮世絵に関する出版を扱いました。
・江戸時代の版元は、この「書物問屋」と「地本問屋」に大きく分類されます。
・浮世絵版画の誕生と新興都市の江戸の発展が影響して、上方に先行されていた江戸の出版界は独自の展開を始めたのです。
・こんな江戸の出版界で版元蔦重は活躍しました。

 参考書籍:田辺昌子監修『徹底図解 浮世絵』新星出版社 中村興二/岸文和編『日本美j津を学ぶ人のために』世界思想社 

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式H.P.

本阿弥光悦情報!!②

「特別展 本阿弥光悦の大宇宙」を楽しむために その2

「本阿弥光悦の代表作とは? 」
・江戸時代の初頭、京都の上層町衆から桃山人の闊達な精神を王朝美術への復帰に生かす独創的な芸術家として光悦と俵屋宗達がいます。
・室町時代からの商家出身である光悦は、書、茶碗、蒔絵の各分野を自ら手掛け、あるいは指導、意匠家として多才ぶりを発揮しました。
・特別展でも展示される「舟橋蒔絵硯箱」(国宝)は蒔絵の代表的作品。『後撰和歌集』からとった舟橋の情景が、蓋を思い切り盛り上げた奇抜なデザインであらわされていて、光悦の強いデザイン志向を物語っています。
・茶碗では、離宮好みの楽茶碗として「乙御前(おとごぜ)」「雨雲」「時雨」「不二山」と名付けられた茶碗があります。
・「時雨」(重要文化財)は本展でも展示されますが、光悦らしさを表す箆など手による勢いのある意匠は抑えられ、静謐な印象を与えています。
・書は、空海や小野道風の上代様に学んでいて、太細の変化にとんだ個性的な筆跡を作り出しました。
・「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重要文化財)は俵屋宗達の下絵に光悦の書という、大変贅沢な作品で、こちらも特別展で鑑賞することができます。

参考書籍:辻惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会

「特別展 本阿弥光悦の大宇宙」公式H.P.

本阿弥光悦情報!!①

「特別展 本阿弥光悦の大宇宙」を楽しむために その1

「本阿弥光悦とは?」
・本阿弥光悦(1558-1637 永禄1~寛永14)は江戸時代のアート・プロデューサー。
・刀剣のとぎ(研磨)・ぬぐい(浄拭:じょうしょく)・めきき(鑑定)を家業とする本阿弥家に生まれました。
・けれども光悦は本職だけでなく、書・漆工・など美術工芸全般に携わるアート・プロデューサーとして多才ぶりを発揮しました。
・1615年(元和1)には徳川家康から洛北鷹峯(らくほくたかがみね)の地を拝領、一族と富裕商人、蒔絵師・紙師などの職人とともに移り住みます。
・光悦や職人、京都の町衆は、法華宗(日蓮宗)に夜強い絆で結ばれていて、鷹峰は彼らにとって芸術と信仰にいそしむ理想郷でした。

参考書籍:奥平俊六『すぐわかる 桃山時代の美術』東京美術

「特別展 本阿弥光悦の大宇宙」公式H.P.

蔦屋重三郎情報!!③「黄表紙とは?」

「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を楽しむために

「黄表紙とは何か」その1
・江戸では寛文から元禄年間(1661-1704)にかけて、絵が主で文が従の風俗絵本や、絵の部分が独立した一枚絵が菱川師宣によって制作され、以後は浮世絵として江戸の名物となって、多くの浮世絵師が腕を振るいました。
・享保(1716-36)以後になると、赤本・青本・黒本・黄表紙・合巻といった草双紙と総称される絵入りの小説が流行しました。
・黄表紙とは安永四年(1775)から文化三年(1806)まで、江戸で出版された黄色表紙の絵入り小型本(タテ18㎝、ヨコ13㎝)のこと。
・安永四年に出版された恋川春町作・画『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』がそれまでの黒本・青本の内容とは全く異なっていて、これが黄表紙の始まりとされています。
・赤本は子供から大人まで幅広く読まれ、黒本・青本は文芸作品に取材したものでしたが、黄表紙は、パロディや誇張が面白い内容で、また一流の浮世絵師が描いた絵が用いられた大人向けの小説でした。
・地本(じほん)問屋を代表する蔦屋重三郎(1750-97)は、狂歌や俳諧、戯作に関心を寄せる文化人のネットワークと浮世絵師を巧妙に結び合わせて、狂歌絵本・黄表紙・一枚絵などに新境地を開きました。
・江戸の地本(じほん)問屋とは、「上方下り」の本を扱う見世に対して、江戸独自の一枚物の版画や草双紙の出版・販売をする草紙問屋のこと。
・喜多川歌麿(1753?-1806)の美人大首絵や、東洲斎写楽の役者似顔絵などは、蔦重の企画力が無くては生まれなかったでしょう。

 参考書籍:中村興二/岸文和編『日本美j津を学ぶ人のために』世界思想社 小池正胤他編『江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集』教養文庫

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式H.P.

蔦屋重三郎情報!!②

2025年の大河は、蔦谷重三郎のお話だそうで・・・

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」↓
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=38344

蔦重情報①の続きです!

 惟雄(つじ のぶお、1932年6月22日 - )『17・18世紀の美術 浮世の慰め』岩波書店1991年5月8日 第1刷発行 90~91頁を参考に

「官能の美ー歌麿」その2
・1788年につくられた枕絵本の最高傑作『歌まくら』に続いて、歌麿の画名を不朽にする錦絵の美人大首絵が制作されました。
・この頃、寛政の改革によって黄表紙弾圧で蔦重は痛手を負っていたので、家運挽回の企画だと言われています。
・1791(寛政3)年~1794年頃にかけて、歌麿美人錦絵の傑作が相次いで世に出ました。
・清長の美人錦絵は、①背景を描く②生活している女性③姿態美に主眼。

歌麿は①背景は黄色や鼠、または白、紅、黒の雲母で塗りつぶし②理想の女性像③エッセンスで描きました。(次回は「黄表紙」を書きます)

蔦屋重三郎情報!!①

2025年の大河は、蔦谷重三郎のお話だそうで・・・

2025年NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」↓

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=38344

この大河ドラマのおかげで♥
来年は、浮世絵の解説や講座のリクエストをいただいております。
ありがとうございます♥

このホームページで、蔦重のコーナーを設けるかどうかは検討中ですが
「新着情報」で少しづつ、蔦重情報をお伝えします。

まずは、
 惟雄(つじ のぶお、1932年6月22日 - )『17・18世紀の美術 浮世の慰め』岩波書店1991年5月8日 第1刷発行 90~91頁を参考に

「官能の美ー歌麿」その1
・1785(天明5)年に鳥居家4代となった鳥居清長も、天明期を境に錦絵の発展が止まり、その代わりに脚光を浴びたのが喜多川歌麿です。
・歌麿の出身地は、江戸以外と考えられていますが明らかではありません。
・はじめは狩野門人の町絵師に学んで役者絵を手掛けていたところ、蔦重に認められたそうです。
・1782(天明2)年、蔦重の肝いりで、「歌麿」の改名披露を盛大にしました。
・歌麿と蔦重とのコラボは、絵入り黄表紙や洒落本から始まりました。
・その後豪華な多色摺の狂歌絵本『画本虫選(えほんむしえらび)』『汐干のつと』を刊行しました。(後日、続きを書きます)